2007年12月25日 (火)

パレスチナ人流浪の民に  天木直人

流浪の民にさせられようとしているパレスチナ人

 このブログに限っては公開情報を読み解くものではない。私のブログには珍しく、生の情報に基づいて書いている。
 21日、私は訪日中のレバノンの友人と食事をしながら話した。話題はもっぱら最近のレバノン情勢についてである。その中で友人は最新情報を提供してくれた。想像はしていたがここまで米国の中東政策が進んでいるとは思わなかった。彼が語ったあらましはおおよそ次のごとくである。

 米国はレバノンを完全に支配下に置こうとしている。その支配を旧宗主国のフランスを代理人として行おうとしている。フランスはレバノンのかつての宗主国だ。その形を保ちながら、実際は米国の意のままにレバノンを動かそうとしている。イラク攻撃の時米国に楯突いたシラク大統領はもはやいない。その寵児であったドビルパン外相はスキャンダルで失脚させられた。かわってユダヤ人でありイスラエル情報機関に属していた経歴のあるサルコジを大統領選挙で勝たせ、そのサルコジがレバノンの米国代理統治者の形をつくった。
 もはやブッシュ政権の残された唯一の関心事はイスラム原理主義の武装抵抗組織、アルカイダをイラクから排除し、イラクの治安を回復することだ。
その為にシリア、イランと取引を始めた。見せかけのパレスチナ和平実現のため、彼らの理解と協力を得ようとしている。
  パレスチナ問題はパレスチナ人のイスラエルからの追放という形で解決しようとし始めた。大方のパレスチナ人は平和な生活を望んでいる。そのようなパレスチナ人を米国はどんどんと国外に移住させようとし始めた。周辺諸国や欧州諸国に受け入れろと命じている。もちろん米国へも移住させる。かつてパレスチナ人に対しては厳しかった入国査証が今では一変して緩和された。
  移住に抵抗し、最後まで闘うと宣言するハマスの強硬派を徹底的に抹殺し、親米パレスチナ人の傀儡国家を樹立し、イスラエルとの共存を図る。それが中東和平の実現である。実質的なイスラエル国家の樹立である。
  レバノンのに対しては、隔離していたパレスチナ難民をレバノン国民として受け入れろと強烈な圧力をかけ始めた(註レバノンはアラブの中では唯一キリスト教が優勢な国で内戦の原因となったパレスチナ人は難民キャンプに隔離してレバノン国籍を与えない政策をとっている)。
 レバノンにデンマーク大使館が2ヶ月前に開設された。先日着任したばかりのデンマーク大使と話したが、新大使は自分の仕事はもっぱらレバノンのパレスチナ難民をデンマークに受け入れる事だと言っていた。レバノンに存在する40万人のパレスチナ難民のうち2万5千人の難民をデンマークは受け入れる事にした。
 米国とイランの間にどのような取引が為されたかはわからないがイランの指揮下にあるレバノンの反米武装抵抗組織ヒズボラは最近めだって大人しくなった・・・

  果たして米国の思惑通り事が運ぶのであろうか。もしそうだとしたらパレスチナ人はかつてのユダヤ人のごとくディアスポラ(国なき流浪の民)となるということだ。2000年もの間ディアスポラであったユダヤ人が、今パレスチナ人を追放し、自らの国を手に入れようとしている。歴史の残酷な皮肉である。

 

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2007年12月23日 (日)

ミサイル防衛NO ハワイから

核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」へのハワイからの連帯あいさつ

 2007年12月11日

 日本の兄弟・姉妹の皆さんにあいさつを送ります!

 アメリカのいわゆる「ミサイル防衛」システムに日本が参加することに
反対する皆さんに熱いあいさつと連帯を送ります。
 
 私たちは「ミサイル防衛」が嘘であるということを知っています。「ミ
サイル防衛」の真の戦略的目的は米軍の攻撃能力を高めることにあります。
はるか上空から海底深くに到るまでの軍事的「全領域支配」を追求しよう
とするアメリカのあくなき姿勢は、平和と安全をもたらすものとは程遠く、
地球全体を脅かす危険で新たな軍拡競争を加速させています。

 米国は、太平洋地域における帝国拡大のために、独立国であったハワイ
に武力侵攻し占領しました。現在、帝国の情報技術前線の拡大に伴い、米
国のミサイル防衛プログラムは、ハワイの陸地や、海、空を侵しています。
「こんごう」が撃ち落とす予定のミサイルは、カウアイ島ノヒリにある聖
なる砂丘の上から発射されます。この場所は、ハワイの先住民族である「カ
ナカ・マオリ」(Kanaka Maoli)が伝統的に墓地にしてきた所なのです。

 米軍による侵犯は、帝国が自らの領域を監視するための電子的な目や耳
を設置しているハレアカラ山(マウイ島)やマウナケア山(ハワイ島)な
どの聖なる山々に広がり、強力なソナーがクジラたちを傷つけ殺している
かもしれない海中深くにまで及んでいるのです。

 さらに、米海軍は、「暫定作戦地域」を210万平方海里および空域に
広げることを計画しています。これはハワイ諸島全域を完全に包含するも
のです。

 私たちは、私たちの大切な土地や、海、空が戦争の出撃地になることを許
しませんし、戦争マシーンの工作者たちに場所を与えることも許しません!

 私たちは、ハワイ沖のミサイル防衛実験に日本が参加することに強く反
対し、米国のミサイル防衛計画への日本の関与を拒否する皆さんのアクシ
ョンに拍手を送ります。こうした戦争ゲームに日本が加担することは、そ
の平和憲法を裏切ることです。

 平和と正義と非核の世界に向けて、私たちの声と行動を結集しましょう!

 連帯のもとに

DMZ(非武装地帯)ハワイ(アロハ・アイナ)
アメリカフレンズ奉仕委員会ハワイ支部
オハナ・コア(非核独立太平洋)
カウアイ平和社会正義連合
マル・アイナ非暴力教育行動センター

 [翻訳協力]笠原光・山口響
      (アジア平和連合〈APA〉ジャパン)

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2007年12月 9日 (日)

すでに戦時下に 天木直人

この国はすでに戦時下にあるのではないか

  朝日新聞の土曜日ビジネス版に中国人ジャーナリスト、莫那富(モーバンフ)という人が連載で書いているコラムがある。その12月1日のコラムに、ー入管で感じた「戦時下」―と題して、11月20日から導入された外国人を対象にした新しい入国管理制度への所感が述べられていた。この新しい入管制度は、「テロリストの入国を水際で防ぐ」という理由で、来日した外国人に等しく指紋採取と顔写真の撮影を義務づけるという制度である。
  我々は外国人ではないからその異常さに気がつかない。この国のメディアの書き手も大部分は日本人だから気づいていないと見える。だから人権や個人の自由を規制するあらたな制度については書き立てるメディアも、外国人のみに適用されるこの新しい入管制度についてはあまり熱心に取り上げる事はない。
  しかし、この莫さんの記事を読んで、私はあらためてこの新外国人制度の異常さに気づいた。およそ先進国の中でここまで行う国は少ない。イスラエルや米国でもこれほどではないだろう。日本を訪れる外国人はさぞかし腹立たしい思いをしているに違いない。
  莫さんは決して激しい調子で批判しているのではない。しかしその穏やかな表現の下で、莫さんの怒りが沸騰している事がよくわかる。断片的にその言葉を以下に引用してみたい。

「・・・長年の居住実績を持ち、厳しい審査を経て永住資格を認められた外国人も例外ではない・・・指紋採取と顔写真を始めた直後に日本に戻ってきた私は、空港の空気の異常さに閉口した。入管職員が物々しく外国人を誘導する・・・
   指紋を採取され、顔写真を撮られながら私は理解に苦しんだ。平和憲法を掲げる国なのに、なぜ自国以外の国の人間すべてを敵と見てしまうほど警戒しなければならないのか・・・もしかしたら新幹線への乗車の際にも外国人はこうした待遇を受ける時代への心構えを今から持たなくてはならないかもしれない・・・
   成田空港の入管職員の襟に『ようこそジャパン』というバッジがあった。『ようこそ戦時下の日本へ』に書き直した方が正確ではないか・・・」

 最後のくだりは強烈な皮肉である。そういえば小泉元首相は観光客の誘致を始めた総務省(旧運輸省)の宣伝ビデオに嬉々として登場し「ようこそジャパン」と呼びかけていた。そのビデオが空港のいたるところで放映されていた。よほど自分の容姿に自信があるのか、あるいは手のよい動く選挙ポスターか、などと思って眺めていた事を私は思い出す。観光誘致をしておきながらまったく矛盾する政策を政府は取り始めたのだ。
  しかし私が「ハッと」驚いたのは、この国は戦時下にあるのではないか、という莫さんの指摘である。そして、それは実はその通りなのではないかと思った。これがこのブログの訴えたい事である。
  米国は「テロ」と戦っている国である。しかもその「テロとの戦い」を「最終的な、終わりのない戦い」であると米国みずからが世界に公言している。その戦いはこれからどんどんとエスカレートしていくに違いない。
  その米国との軍事同盟を強化し、米国と一体になって「テロ」と戦おうとしている日本は、間違いなく戦時下にある。そう思ってあらためて小泉政権下において急速に進められていったわが国の政策を冷静に振り返ってみると、今更ながらに「テロとの戦い」という名目の下で、我々の日常生活が規制され、不便な暮らしを強いられるようになってきた事に気づく。普通でない政策が、静かに、しかし広く、深くこの国を覆い始めている事に気づく。
  銀行の送金手続きが不必要に煩瑣になった。個人情報保護法の名の下にやたらに個人の行動が監視されるようになった。戦車が商店街を平気で通り、東京のど真ん中で迎撃ミサイルパトリオットの移動訓練が行われる。戦争帰りの米国空母が大手を振って日本の港に寄港する。国民生活にまわるはずの予算が米軍再編の協力のために使われ、米国の戦争への忠誠度に従って住民への予算配分が決められていく・・・
  数え出したらきりがない。そしてそれらの政策に反対しない大連立政権が早晩実現する雲行きになってきた。これはもう大政翼賛政治である。
  問題はこの異常さに本気になって警鐘をならすメディアがなくなったということである。従って国民の大部分が問題意識を持っていない事である。それもまさしく巧妙な政府の情報捜査、情報管理の結果であろう。
  この国は間違いなく戦時下に入りつつあると思う。

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2007年11月25日 (日)

レバノンの混迷  天木直人

アフガン給油、中東和平国際会議、レバノンの混迷

  アフガン給油に従事していた自衛隊の補給艦が日本に戻ってきた。それを防衛大臣や官房長官など政府要人がこぞって仰々しく出迎えた。テレビが一斉に放映し、国民の視覚に訴えた。24日の朝刊各紙もこれを取り上げた。おりしも国内政治はアフガン給油活動の継続をめぐって自民と民主が政権をかけて争っている。政府・自民党側からしてみれば、自衛艦を「誇らしく出迎える」ことにより、「熱波の中東で自衛隊は命を賭けて立派に国益を果たした」と、国民の感情に訴えたいのだろう。そうして給油継続への支持率を高めたいに違いない。
  しかし同じ24日の朝刊各紙は、世界の注目が27日に米国で行われる中東和平国際会議に集まっている事を報じた。同時に、任期が切れた大統領の後任者が決まらないレバノンの政治的空白が中東の混乱を招きかねないと危惧している。
  アフガン給油、中東和平会議、レバノンの混迷、この三つの報道を関連付けて解説する事が今日のブログの趣旨である。
  アフガン給油問題は、中東問題の中の実に瑣末な問題である。米国の、いや世界の最大の関心事は、危機に瀕した中東和平をいかに復元するかである。この事を私は繰り返して書いてきた。
  ブッシュ大統領の中東政策は、これまでのどの米国大統領以上にイスラエルに傾斜してしまった。そしてイスラエルのパレスチナ弾圧を放置してきた。その結果これまでに築き上げられた中東和平のかすかな希望まで粉砕してしまった。アラブの反米感情が高まり、アルカイダの9・11テロに繋がった。
  本来ならば、ここで米国は中東和平の実現に本腰を入れるべきであった。しかしイスラエル・ロビーに影響されたブッシュ大統領は、テロとの最終戦争を選んだ。アルカイダをかくまったアフガニスタンを攻撃し、反イスラエルの急先鋒であるサダム・フセインを排除し、レバノンの反米・イスラエル勢力であるヒズボラを攻撃した。いずれも失敗し、中東情勢は混迷した。その中で、米国は核武装を行おうとするイランの攻撃さえも視野に入れている。
  何故レバノンの大統領選挙が大問題なのか。レバノンは中東のクロスロードである。その地政学的重要性のゆえにレバノンと言う国は有史以来大国に征服され続けてきた。ギリシャ、ローマの支配から始まって長い間オスマントルコの支配下に置かれた。近代においてはフランスの植民地となり、そして戦後フランスから独立した後は、イスラエルとパレスチナの紛争の舞台となり続けた。イスラエルの北に国境を接するレバノンが、親米・イスラエルの国になるか、親イラン・シリアの国になるかは、中東和平の帰趨にとって極めて重要なのである。
  米国はシリアのレバノン支配を長らく許してきた。それはシリアが反米テロを押さえつける役割を果たしてきたからである。しかし9・11を契機に米国は中東全体を民主化しなければ真の安全は得られないと考え方を改めた。中東を親米政権に染め上げ、イスラエル・米国の安全保障を一気に高めようとした。
  それに危機感を感じたのがシリアだった。レバノンと言う経済的に魅力のある国を手放せばシリアはただの貧しい国となる。ましてや米国・イスラエルから攻撃されればシリアはひとたまりもない。危機感を抱いたシリアは、反米の雄であるイランと結びつき、レバノンを反米・イスラエルのテロの拠点として生き残りを図ろうとした。
  そのような中で、レバノンの新しい大統領が米国・イスラエルの言いなりになる大統領となるのか、それともイラン・シリアの傀儡大統領となるかは、もはや中東紛争の帰趨に直結する大問題となった。だからいつまでたっても大統領が決まらない。暗殺が続き、国民が分断された。残念ながらレバノンの混乱は当面は悪化の一途をたどるだろう。情勢如何ではイスラエル・米国の軍事介入もありえよう。
  そして中東和平である。任期が迫ったブッシュ政権にとって、もはやアフガンもイラクも安定化は望めない。せめて見せ掛けの中東和平を実現し、外交実績を残そうと思い始めたとしてもおかしくない。それが27日に行われる中東和平会議である。
  しかし、パレスチナの暴力放棄しか念頭になく、パレスチナ国家の成立を決して認めようとしないイスラエルと、それを容認するブッシュ大統領が主催する和平会議が成功する見通しはまったくない。
   ブッシュ大統領が中東和平実現を焦ってパレスチナに強硬姿勢をとるならば、中東和平は更に遠のく事になる。そうなれば、アフガンもイラクも混乱が放置され、レバノンが内戦になり、パレスチナではハマスが最後の抵抗を示す事になる。加えて、核開発に固執するイランを、イスラエルや米国が攻撃する事にでもなれば、まさに中東全体が燃え上がる。米国にとってもはやアフガン情勢どころではなくなる。そのアフガンに給油活動を行う日本は、完全にはしごを外されることになる。
   政府・自民党は中東情勢を真剣に考えたほうが良い。日米同盟への悪影響をおそれる、ただその一点でアフガン給油に固執する事が、中東情勢や国際政治から見て如何にぴんと外れであるかを、外務官僚の浅はかな入れ智恵に踊らされるのではなく、胸に手を当ててよく考えるべき時だ。何が本当の国益か。今こそ政治家は真剣に考えるべきである。

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2007年11月18日 (日)

近衛文麿と昭和天皇

近衛文麿と昭和天皇

沖縄戦直前の1945年2月14日、敗戦を視野に入れて、近衛文麿元首相は昭和天皇に上奏している。

「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候・・・

 敗戦は我国体の一瑕瑾たるべきも英米の輿論は今日までの所国体の変革とまでは進み居らず・・・随って敗戦だけならば国体上はさまで憂ふる要なしと存候・・・

国体護持の立場より最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴ふて起こることあるべきは共産革命に候・・・

随って国体護持の立場よりすれば、1日も速やかに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候・・・」細川日記(細川護貞)

                

日本の敗戦は必至だが、敗戦よりも共産革命による国体護持を心配しているのである。

これに対し、軍隊の大元帥である昭和天皇は言う。

「もう一度、戦果を挙げてからでないと、中々話は難しいと思う」

敗戦がわかっていても、なおも交渉を有利にするため、どこかで日本軍勝利の戦果を挙げてから、終戦の交渉につきたいと思っていたのである。6月の沖縄戦は、敗戦を前提としながらの、国体護持をかけた戦闘であったのだ。それは、本土決戦を引きのばし、決戦準備と終戦交渉の時間稼ぎのためのものであった。

この間8月15日の終戦までに、都市への空襲、広島・長崎への原爆投下、ソ連軍の参戦などなどで、どれだけの人々が命を失っていったことか。ただただ、天皇制支配の国体護持のためにである。お国のためにとは、まさに「国体護持」より他の何物でもなかったのだ。軍隊とは、決して、国民を守るためのものではないのだ。

参考資料「軍縮」12月号  mm記

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2007年11月14日 (水)

県民へのアピール  沖縄

県民へのアピール

砲弾の豪雨の中へ放り出され

自決せよと強いられ

死んでいった沖縄人(うちなーんちゅ)の魂は

怒りをもって再びこの島の上を

さまよっている

いまだ砲弾が埋まる沖縄の野山に

拾われない死者の骨が散らばる

泥にまみれて死んだ魂を

正義の戦争のために殉じたと

偽りをいうなかれ

歴史の真実をそのまま

次の世代へ伝えることが

日本を正しく歩ましめる

歪められた教科書は

再び戦争と破壊へと向かう

沖縄戦の死者の怒りの声が

聞こえないか

大和(やまと)の政治家・文化省には届かないか

届かなければ 聞こえなければ

生きている私たちが声を一つにして

押し上げ 訴えよう

9.29教科書検定意見撤回を求める県民大会実行委員会

*2007.9.29 宜野湾海浜公園で開催された県民大会には11万人が参加。

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2007年10月13日 (土)

給油新法「国益」の意味を問う

給油新法「国益」の意味とは?

毎年60億円の税金を使って、アメリカ軍に給油し続けることが、日本の国益だと福田首相は言う。給油の実態も給油した後の行方も、国民にはほとんど知らされないままであった。しかし、その先にアフガンやイラクへ出撃し、たくさんの市民が殺されていることは容易に察しがつく。日本はアメリカと共に戦争をしているのである。しかも、日本に対してなんの被害も及ぼしたことのない国に加害者として。

これが日本の国益というなら、いったい誰にとって何の利益をもたらすというのか?

今日、多国籍化する日本の企業の動きと連動したものであろう。大企業の多くは、外国資本が入っており、その実態はアメリカ資本である。日米関係の重要性とは、つまり日米の企業の重要性をさしている。日本の企業の看板を掲げていても、その中味はアメリカの利益が関係しているのである。

反米テロの脅威は、同時に日本の企業の利益を脅かすことになると考えているのだ。グローバル化した日米の企業活動を、軍事力で防衛してもらいたいと願っているのだ。できれば、憲法を変えて、邪魔になる「テロ組織」や「テロ国家」を先制攻撃でもなんでもして、壊滅させていきたいところだろうが、現在ではできない。そこで、日米軍事同盟などといって、アメリカ軍を援助していくしかないのである。

「国際貢献」は「アメリカ貢献」、「テロ対策」とは「大企業の利益対策」ということである。

世界的には富の偏在、国内的には労働者を極限にまで搾取するシステムをそのままにしておいて、「国益」などという発言を私は許さない。大企業が儲ければ儲かるほど、一般の国民は貧しくなるではないか。貧しさの先には、医療、年金も保障されず、命の存在さえも危うくなりつつあるではないか。給油新法は、決して、私たちの日常と無関係ではない。

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2007年9月24日 (月)

「集団自決」記述削除の撤回を

集団自決記述削除の撤回意見書可決

教科書検定で、沖縄戦における「集団自決」から旧日本軍の「強制」などの記述が削除されたことに対し、高知県の自治体が、検定意見の撤回を求める意見書を可決した。

香南市、土佐清水市、いの町である。高知市も可決の見通しとなっている。
沖縄県では、県議会と全41市町村で、同様の意見書が可決されている。

香南市の意見書は、「体験者による数多くの証言や歴史的事実を否定しようとするもの、悲惨な地上戦を体験し、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられてきた沖縄県民の心情を察すると、到底容認できるものではない」としている。

沖縄戦で亡くなった高知の人々も少なくない。決して、よその地の出来事ではないのだ。集団自決のあったところ、必ず日本軍がいたではないか!
八重山諸島の住民の強制移住も、日本軍が島の食料を得るためではなかったか?石垣島のマラリア惨禍の碑の前で、私は言葉を失っていた。

日本の各地で、撤回意見書が出されることを切望している。

mm記

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2007年9月11日 (火)

残留孤児 Sさん最終回

私は1949年に沈陽で結婚しました。息子1人、娘3人です。皆、日本に呼び寄せました。主人は平成3年に中国で亡くなりました。

文化大革命の時には、スパイと疑われて、夜中に戸籍調べに何回も来て、とても怖かったです。日本の親戚から送ってきた写真なども全部、持っていかれました。子供や主人にも迷惑をかけました。工場で働く時は、「日本鬼」と言われて、いじめられました。

終戦当時、私は生き地獄に突き落とされて、家族9人は混乱の中で死に別れ、生き別れとなり、九死に一生を得て、中国人の養母と娘さんに助けられて、生き残り、何十年も中国で生活してきました。

戦争のために、いろいろな困難と苦労と悲しみのなかで、何百万人の日本人が血を流して他国に骨を埋めたことでしょう。私の父母や3人の妹たちもその中のひとりです。敗戦当時の苦労に耐え、日本国民のみじめさを、この身を持って体験して、目撃してきました。終戦当時のつらい思い出は、生きている限り忘れることはできません。当時のことを思うと、平和がどんなに尊いか。

これからは、2度と戦争が起きないように、あの惨劇を繰り返さないよう、お互いに永遠の平和を願いたいと心から思い祈っています。皆様にこの歴史を伝えて、戦争の怖さを知っていただきたいと思います。

お世話になった養父母のご恩は忘れることなく感謝して、日中友好を守りたいと思います。私は祖国、日本へ帰れることを、一日千秋の思いで願っておりました。やっと、平成元年に、懐かしい故郷に帰ることができました。皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます。

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2007年9月 9日 (日)

残留孤児 Sさんその8

避難所に初めに帰ったときに、少し残っていた荷物と死んだ家族の爪と髪を持ってきたのです。祖父を親戚の家に置いてきた時、祖母が祖父の爪と髪を切って持っていたのです。2人の妹と父と祖母が亡くなった時も、母が皆の爪と髪を切り取っていたので、母が亡くなった時、私が母の爪と髪を取って全部それぞれ人の名前を書いてありました。

私は、いつか日本に帰れるようになったら、持って帰らなければならないと思って、ハンカチに包み大事に持っておりました。赤い小さな布をお母さんに貰って、袋を縫うてその爪と髪を包んだハンカチを袋に入れて大事にしていました。淑芹さんが、あの袋に何が入っているか見せてと言ったけど、私は見せなかったです。

私が一番大事にしていた家族の爪と髪を包んだハンカチと赤い布が、何時の間にやらなくなっていました。私が外へ出ていったときに、捨てたと思います。お母さんに、赤い袋を見なかったかと聞いたら、あれは死んだ人の物だろう、あんな物を家の中に置く人はいないから淑芹が何処かへ持って行って埋めたと言いました。場所を聞いたけど、教えてくれませんでした。

中国と日本は習慣が違います。中国人は、外で死んだ人は絶対に家の中へは入らせません。病院で死んだ人は家に帰りません。病院から火葬場へ行きます。日本人は、何処で死んでも家に連れて帰り通夜をしてから2日ぐらいおいて火葬場に行くでしょう。大地の子を見たと思います。もう死にそうになったら、オンドルの上から地面におろして、オンドルの上で死んだらいけないのです。自分の家で死んだ人は地面におろすのです。中国と日本は習慣が全然違います。

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核廃棄物処分場誘致

高知県では昨年来、津野町、東洋町で高レベル放射性廃棄物を地中に埋める施設を誘致する動きがありました。しかし、「危険だ」という住民の反対の前についえました。その取材で気になったのが誘致に動く民間の仲介人の存在でした。
 ○…津野町では、高知市介良(けら)の男性・U氏(79)が山本昇平町議会議長(当時)に、誘致話をもちかけたといいます。「津野町議会には共産党議員がいないし議員たちは一致団結しているということで、私が原環機構にわたりをつけた」(U氏)。山本議員も「彼が原環機構に連絡してくれた」といいます。
 ○…原環機構というのは、この施設の候補地を公募している原子力発電環境整備機構です。この後、同町で盛んに「勉強会」を開催しました。U氏も、誘致反対の住民に働きかけています。その時の名刺は「高知県下に地層処分地誘致提案者」でした。原環機構に十回もいったといい、誘致の効用を説きました。
 ○…そのU氏が八月二十七日、県に「特定非営利活動法人高知県地層処分連絡協議会」の設立認証申請を出しました。事務所は自宅。目的は高レベル放射性廃棄物を地中に埋める施設の適地の調査と、その安全性にかんする研究会の開催・視察などです。「誘致は十年前からの持論」という、この仲介人はあきらめていません。(藤原義一)
 (「しんぶん赤旗」中国・四国のページ。二〇〇七年九月六日付)

*****

核廃棄物処分場誘致をどこまでも進めていきたい人がいるというのが現実である。モグラたたきでもないが、今度は何処でまた話が出てくるか、彼らの動きを注意して見ていく必要がある。

どこかの町村が手を上げるのを待っていては、事が進まないので、これからは、国が前面に出て、自治体に調査を要請するということにもなりかねないようだ。

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2007年9月 5日 (水)

残留孤児 Sさんその7

お婆さんは仕方なく、私に帰れと言ったのです。私は、帰れと言われても帰る所はありません。帰れと言われるたびに、私は泣いていました。せっかく、家の中で寝られるし、ご飯も腹一杯たべられるのに、今から出ていけばどこへ行ったらよいか、行く先もないのにと思えば、只泣くばかりでした。お婆さんも困って可哀相だが、誰かこの子を連れていって世話をしてやってくれないかと、近所の人達に私のことを話していたようです。

淑芹さんがお婆さんの家の近くに遊びに来て、お婆さんの話で私のことを聞いて、家に帰りお母さんに話して、2人で来て私を引き取って家に連れて来て下さいました。私は病気と栄養失調で、骨と皮ばかりでした。近所の人や淑芹さんのお婆さんがとても反対でした。今すぐにも死にそうな者を連れてきて、どうなるぞと言って怒っていたようです。

淑芹さんとお母さんは、とても心のやさしい良い人でした。私は薄着で、服もなく寒くて震えていました。家に着くと、淑芹さんに服を出させて、私に着せて下さいました。ちょうど、もうすぐ旧正月でしたので、新しい布を出して、お母さんが綿着を作って下さいました。私が病気の間は、お米のお粥を食べさせてくださったのです。親も皆死んで子供ひとりになって、可哀相ではないか、命がある限り助けてやらなくては、と言って私の世話をして下さったのです。

お蔭様で、私も次第に体も少しずつ回復してきて、少し元気になってから、淑芹さんと2人で難民所へ2,3回行って、弟と妹の消息を隣の人に尋ねたのです。妹さんは、あれから全然見えなかったけど、弟さんは時々帰っていましたよ、と言ってくださいました。私も弟も帰った日が違うので、残念ながら会うことはできませんでした。

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2007年9月 3日 (月)

姜日出(カン・イルチュル)さんの消せない記憶

姜日出(カン・イルチュル)さんの消せない記憶

1928年生まれ。16歳の学生のときに、親戚の家から実家に帰る途中、連行される。中国の牡丹江で「慰安婦生活」を強いられる。発疹チフスに罹り、穴に入れて焼き殺されるところを朝鮮の軍隊に助けられて、逃亡する。その後、中国の病院で看護婦をして、2000年に韓国へ帰国する。現在は、ナヌムの家で暮らしている。

ナヌムとは、「分かち合い」と言う意味で、ナヌムの家では性暴力の被害女性たちが共同生活をしている。

9月2日、姜さんが来高しました。美しい水色のチマチョゴリを着て、会場に向かって手を振りながらにこやかに登場しました。証言集会に先立って、高知の山奥でダムを作るため、朝鮮人が連れてこられ、たくさんの人が亡くなり、そのまま埋められている所を訪れたとのことで、証言の最後には、遺骨を朝鮮の遺族の元へ返してほしいと泣き崩れてしまいました。悲しみ、悔しさ、怒りで胸が詰まってしまったのだと思います。朝鮮民族としての誇りを傷つけられた「恨(ハン)」の思いであろうと・・・

姜さんは、安倍首相が慰安婦問題はなかったと言ったこと、また日本からはお金のためにやっていたんだろうという話が伝わってきたことを、とても怒っていました。自分はこうしてまだ生きて証言しているのに、なかったとはどういうことか。お金のためなどあり得ない、私は恵まれた家で育ちそんなことをする必要もなく、家族はお金で私を売ったりなどしない、と語気を強めて語りました。彼女の悔しい胸の内は言葉になりません。アメリカの議会だって、日本政府に謝罪するよう言っているのに、安倍は何もしないと。

安倍はアメリカへ行ったとき、戦闘機を100機も買う約束をした。また日本が戦争のできる国にするのか、戦争は悪いことばかりで、やってはいけないことだと。

慰安所では、たたかれるなどひどい暴力を受けて、頭に傷も残っていて、今でも頭痛などのいろいろな後遺症があるといいました。人間として扱われなかったのです。心も体もどれほど傷つきズタズタにされたことかと思うと、私は自分の思考が停止してしまうようでした。日本の軍人に傷つけられて、怪我をし病院へ入院した時のこと。りっぱな体つきの朝鮮人男性が、とても具合悪そうに横たわっていました。人の話では、注射されて実験台にされるところを、事前の検査で悪いところが見つかり、実験の効果が見れないのでここにいるということだったようです。731部隊はハルピンにいましたが、ここ牡丹江にも小さな部隊があったそうです。話を聞いて、姜さんも、いつ自分が実験台にされるかもわからないと恐怖の日々だったそうです。恐ろしいことです。731部隊の記録は、私も読んでいますが、こうして直接、その場にいた人の話を聞くのは、初めてで、感覚として実感しました。クラクラと倒れんばかり。事実に正面から向き合うことのむつかしさ!

今日の証言集会は、大学生など若者が中心になって計画したものです。姜さんは、広島、長崎の原爆投下など日本のこともたくさんはなしました。政治の場には平和な国を作る人たちを選んで欲しいと訴えました。そして、自分の辛い話を、若い人たちが聞いてくれていることに感謝している、この先、自分が死んでも聞いてくれた人の心に残っているだろうと。

あの戦争はどうして起こったのか、誰が何のためにやったことなのか、そこでどんなことが行われたのか、私たちは知らなくてはならないと痛切に思いました。事実を知ることが、戦争を知らない世代に与えられている責任だと。過去の歴史に目をつむらないことが、いかに大切であるか。私には朝鮮語はわかりませんが、それでも、姜さんの姿を見、声を聴き、彼女の心の波動を全身で感じ取っていました。

姜さんの思いを心を、ひとりでも多くの人に伝えていきたいです。

                                             mm記

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2007年8月26日 (日)

残留孤児 Sさんその6

弟と2人きりになって、とても淋しかったです。ソ連軍兵隊が入って来て、女の人を見たら引っ張っていくので、女は皆、頭の髪を切ってずるぼうずにしました。私も恐ろしくて髪を切りました。寒くて食べ物もなく、困っていたところへ1人の中国人が来て、小どもご飯が食べられるが家に行かないか、と言ったので弟と2人で行きました。2日ぐらいして、私を三輪車に乗せて、別の老夫婦の家に行きました。私にこの2人の世話をさせるために連れて行ったと思います。私は栄養失調で病気になり、人の世話をするどころか自分の事を様々していました。3日めに、私を連れて来た人が来て3人で話をしてから、私に帰ろうと言って外に出たのです。今度は何にも乗らずに歩いて帰るので、その人は歩くのがとても早くて、私は追いつかなくて捨てられたのです。私は老夫婦の世話もできなかったので、お金にならず捨てられたのです。私は道も知らない、弟の所も分からなくて、只一人歩いていたのです。それからは、弟とも連絡が取れなくなりました。

歩いているうちに、お腹がすいてどうしようもなくなり、仕方なく中国人の家を廻り「めしめし、しんじょう、めしめし、しんじょう」と言って乞食のように食べ物をもらっていました。優しい人は何かと持ってきて、食べなさいと言って下さいました。私は嬉しくて頂きました。「行け行け、まぎる、あっち行け」と言って、戸を閉める人もおりました。私は悲しかったです。

夜は人の家の軒下や庭先に入らせてもらって、床下で寝たりしているうちに、1人の婦人に出会い、小さな子供がいたので、私は子供の守をするというような意味を片言の中国語と手振りで言いました。その人は家で一晩泊めて下さいました。翌日、別の家に連れていきました。お婆さんが3人の孫をと一緒に生活していました。お婆さんは、婦人の母親でした。3人の子供は、前の主人の子供で、母親に預けて再婚し2人の子供が生まれ、別に住んでいました。私を連れて行った目的は、長男の嫁にするつもりだったようです。長男は17歳ぐらいで、少し遠い所で働いているようで、1週間に1度ぐらいしか帰ってきません。私のことを話したのでしょう、帰ってくるとお婆さんと喧嘩ばかりしていました。言葉もわからないし、病気で何もできないから早く帰せと、お婆さんに怒っていたようです。

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2007年8月22日 (水)

残留孤児 Sさんその5

子供3人残された私たちは、これからどうして生きて行けばよいかと思うと悲しくてたまりませんでした。終戦当時は医者の手当てを受けることもできず、祖母も父も母も大きな穴に埋められました。後では地面が凍結して穴がほれなくなって、木材みたいに一箇所に積み重ねていました。私はその死体を見て、あれが人間の最後の姿かと思うと、子供心にも悔しくて悲しくて何と言ってよいか言葉にならない感じがしました。お墓もなにもありません。本当にむごいあわれな有様でした。当時亡くなった6人の家族に、私は何もしてやれなかった事を、今思えば残念でたまりません。でも仕方がありませんでした。

残された弟、妹3人の親のない子供となり、食べ物も着るものもなくて、困っていた配給で貰う、もざもざしたお粥も1人お茶碗に一杯でお腹一杯食べることはできません。一緒に避難した開拓団の人たちもちりぢりばらばらになって、頼りになる人もなく困って泣いていました。

中国人の男女が来て、妹を欲しいと言ったので、私は妹だけではやらない、3人が一緒なら行くと言ったのですが、妹は食べ物を貰って喜んで付いて行きました。私たちには、明日迎えに来るからと言ったきり来ませんでした。妹は今日まで行方不明となっています。もし生きておれば、日本と中国政府が残留孤児問題を調べているので分かると思います。良い人にお世話になっていたら元気でいると思うけど、悪い人に貰われていたら、いじめられて病気になりこの世にはいないかもしれません。妹のことは、いつも可哀相に思っています。

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2007年8月 9日 (木)

残留孤児 Sさんその3

私たちは道なき山の中を歩き、又、橋なき川を渡ったりしている内に、広い大きな深い川で大人の胸までくる川があり、私たち困っていたところへ兵隊さんが来て、私たちを首またぎにして川を渡してくださったので、お蔭様で助かりました。あの兵隊さんに会わなければ、私たちは川に流されて溺れ死んでいたと思います。優しい兵隊さんに心から感謝しています。その後も、又何日か山道を歩き、川を渡りして、ロシア人の部落に来ました。1人のロシア人が、日本語で日本は戦争に負けたと言ったけど、誰も本当にしませんでした。その後、中国人の部落を通ったときも、日本は負けたと何人かの中国人も言ったので、皆は本当かなと言って涙を流しました。私も思わず泣きました。日本は何時も、勝った勝った、どこ何処を占領したということしか、言ってなかったので、私たちは負けたと聞いてびっくりしました。

その後もまた何日も歩いて吉林省の平安開拓団に着きました。お婆さんの甥がいたので、私たちは親戚の家に行きました。翌日、匪賊が襲ってきたので、皆、学校へ集まるようにまりましたが、歯が悪くて食べ物は食べれなくて体が弱り、ようやくここまで来ました。皆学校に行ったけど、祖父は歩けなくなって、親戚と仲良くしていた中国人がすぐ近所にいたので、祖父をその中国人に頼んで行ったのです。3日ぐらいして、親戚の人が家に帰ってみました。祖父は翌日、亡くなったようです。お宅のお墓のところへ埋めたと言ったようです。親戚の人は中国語もよく話せて、開拓団に来て7年位になると言っていました。祖父がこの世を去るときに、誰もそばにおれなかったことが、とても残念でしたが仕方ありませんでした。

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2007年8月 7日 (火)

テロ

多数派のときは「民主主義は数だ」と強行採決連発で、少数派になった途端「民主主義は話し合いだ」と虫のいい安倍。しかし民主の方も、菅が阿吽の呼吸で応えている。前原一派の出番さえなさそうだ。
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テロ対策特措法の修正、首相が前向き姿勢…民主党に配慮

 安倍首相は6日午前、11月1日に期限を迎えるテロ対策特別措置法の延長について「この(延長のための)法律を何とか通していきたい。民主党とよく話し合いをし、協力を呼びかけていきたい。どのような形で協議していくかについては今後考えていきたい」と述べ、民主党の主張に配慮した内容の修正に前向きな姿勢を示した。

 広島市で開かれた原爆死没者慰霊式・平和祈念式に出席後、記者団に語った。

 また、原爆症認定基準について「専門家の下で見直しの検討を行うように指示した。(原爆症認定訴訟の)裁判については法的な見地から関係省庁で検討している。裁判とは別に長い間、原爆の被害に苦しんできた人に何ができるかを考え、医療・保健・福祉の総合的な支援策を充実させていかねばならない」と述べた。

(2007年8月6日12時34分  読売新聞)
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テロ特措法の延長、民主・菅代表代行が与党と協議に含み  民主党の菅代表代行は5日のフジテレビ番組で、11月1日に期限が切れるテロ対策特別措置法の延長について「もともと一切支援すべきではないという姿勢で反対したわけではない。自衛隊派遣そのものに反対したイラク(復興支援特別措置法)とは違う」と述べ、与党との協議に含みを残した。

 そのうえで「(政府は自衛隊の活動の)中身を一切示さない。政府の姿勢が変わらなければ、我々も姿勢を変えられない」と述べ、自衛隊の活動実態を明らかにすべきだとの考えを強調した。

 一方、自民党の町村信孝・前外相は5日、テレビ朝日の番組で「法案の修正、米国との話し合いとか、いろいろやらなくてはいけない」と述べ、民主党との修正協議を検討すべきとの考えを示した。

(2007年8月6日0時21分  読売新聞)

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2007年8月 4日 (土)

残留孤児 Sさんその2

8月になって、牡丹江の方が爆撃され、赤く燃え上がる炎が団地から見えるようになりました。団長から早く非難する準備をするようにと命令がありました。私の祖父は馬車に食料や衣類、大切なものを持って、病人や小さな子供たちを乗せて、積める限り積み込みました。みんなは、しばらく非難したら又団地に帰って来ると思って、戸や窓を釘でしっかり打ち込んで家を出ました。その時、祖父母もとても元気でした。私と弟は皆と一緒に歩きました。

開拓団を出てから山道に入り、道が見えなくなるまで歩きました。道が見えなくなったら、そこで野宿しました。雨が降っても雨よけをする場所もありません。みんなびしょ濡れになって、立ったり座ったりしていました。私たちは山の中ばかり1ヶ月以上も歩いていたのです。持っていた食料もなくなり、通る道路の畠にあるとうもろこしやじゃがいもや野菜など草も食べれるというものは全部、いろいろ生で食べました。おしまいには、私たちと一緒に苦労をして荷物を積んで来てくれた馬も、可哀相だけれど何も食べ物がなくなったので、仕方なく殺して食べました。

途中で度々匪賊が鉄砲や刀や鎌や棒刀や刃物を持って出てきて、物を取って行ったり、人を殺したりするので、とても怖くて恐ろしかったです。子供が泣いたりすると匪賊にわかるから、殺せと言う人もおりました。私たちは、泣かれんと言って、家族みんなで手をぎっしり握り合っていました。通る道端には病気で歩けなくなった人や、匪賊に撃たれて血まみれになって、助けて助けてと呼んでいる人もいたけど、みんな自分の命を守ることさえ精いっぱいで、命からがら逃げているので、誰も助ける力はありません。初めは、お互いにみんなで助けあっていたけど、後では自分の命さえどうなるか、いつ死ぬか分からなくなって、誰の面倒もみる事ができなかったのです。

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2007年8月 2日 (木)

残留孤児 Sさんその1

私は昭和7年に吾北村で生まれました。

昭和19年に、国の重要な政策で、父母と祖父母と弟と妹3人の家族9人で、満州へ開拓団として行きました。

私とお婆さんは行きたくなかったけど、家族が行くので仕方なくついていきました。行く時は、すべて、向こうで準備しているから心配はないと言っていましたが、開拓団についての生活は、平屋の一軒建ての家に二家族住むようになっていました。冬は寒くて農業の仕事はできなくて、男の人は山に行って木の枝や枯れ草を刈ってきてご飯を作ったり、オンドルを焚いたりして冬を過ごすのでした。お米や砂糖、なんにも配給です。足りなくなった時は、じゃがいもの凍ったのを蒸して、メリケン粉とまぜてだんごを作って食べていました。春になって、やっと農作物が作れるようになって、畑やたんぼに種を蒔いて忙しくなってきました。

その畑や田んぼに植えた農作物を収穫することもできずに逃避行が始まりました。戦争は益々激しくなり、18歳から45歳の男の人は、健康でさえあれば兵隊に行きました。私の父も6月頃に兵隊に行ったので、祖父母と母が毎日、畑の仕事をしていました。満州に行く人は、兵隊には取らないと言っていたのに、どうしたことか!残されたのは、老人と婦人、子供たちになりました。

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2007年7月24日 (火)

残留孤児 Mさん最終

私は平成2年(1990年)4月24日に永住帰国しました。日本語が分からないため、中国帰国者自立研修センターで日本語を学びました。

平成3年から中華料理店でお皿洗いの仕事をしていました。そして亡き主人の3周忌に、お墓参りに中国へ行きました。帰って、早速市役所へ行きました。係りの人が、帰ってきてお金は今どのくらい手元に残っていますかと聞かれた私は、、子ども達の家で面倒をみてもらい、10万円程持っていると答えました。それなら1カ月は生活できますねと言いました。私はそのまま生活保護を打ち切られました。それから、2カ月、3カ月過ぎても市の担当者からは一切連絡がありませんでした。仕方なく、自分の働いた6万円のお金だけで生活しました。

その後、平成4年に子どもが日本へ来ました。私は生計が成り立たず、子どもたちの家を数ヶ月ごとに転々としながらしのいできました。平成6年7月からすごい目眩メニエル病に加え、手足が麻痺し、仕事ができず、悲しい悩みに難儀で死ぬほど辛かったです。孤児の仲間達が、保護が受けられるようにと励ましてくれました。医者の診断書を出し、平成6年9月から生活保護を受給されました。中国への旅から2年半が過ぎていました。

平成15年2月に河ノ瀬の信号で車と衝突して、腰を骨折し損害賠償金が支給され、この損害賠償金があるので2年間は生活保護は打ち切られ、日々の生活は決して楽ではありません。又、昭和38年3月16日に戦時死亡宣告で死亡者となっていたことも非常にショックでありました。

私も高齢となり体にはいろいろな病気を抱えています。残りの短い人生を、不安のないような生活をしたいと思います。

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2007年7月22日 (日)

愛媛 教科書裁判

判官の良心を放棄した「判決」にNO!
控訴にあたって「※ 補助参加人」のお願い

2007年5月22日、松山地裁の高橋裁判長らは、「採択審議の非公開は違法であ
る」との判断を回避し、私たちの訴えを却下(門前払い)し、法的にも状況証拠も破
綻している被告愛媛県教委の非公開理由を追認し、私たちが被る「非公開」による権
利侵害の「損害賠償」を棄却(否定)する判決を行いました。

県教委の示した非公開理由は、たとえば、2002年度の採択の際に、私たちが近寄
れない職員と警備員の人垣の警備体制下で「非公開」で採択審議を行いましたが、何
の権力を持たない私たちがやむにやまれぬ思いから選択した、炎天下の県庁前で行っ
た「戦争賛美の「つくる会」教科書だけは、子どもたちに渡せない!」とするリレー
ハンストや先の県内外らの要請行動等を「率直な意見交換」を阻害する「圧力」とし
ています。
つまり、「静謐な採択環境」を理由としているのです。これは、「御上に楯突くこと
はまかり成らん! 市民・県民は黙っておれ!」という封建時代さながらの「御上」
意識に外ならず、主権在民を謳う憲法を真っ向から否定するものです。

ところが、憲法の「番人」であるはずの高橋裁判長らは、自らの保身と栄達のために
行政権力である県教委に擦り寄り、県教委の非公開理由を追認し、被告らに「ベス
ト」となる判決を行いました。つまり、三権分立原則の司法の独立と法の番人として
の「裁判官の良心」を放棄しました。
私たちは、県教委の非公開採択審議もこの判決も到底認めることはできませんので、
高松高裁に6月1日に控訴しました。

そこで、この控訴において、新たにこの裁判の「※ 補助参加人」を広く募集するこ
とにしました。この裁判は、非公開の採択審議を差止める目的で急遽行ったため原告
を集める時間がありませんでしたので、原告は8名です。そんなわけで控訴に当たり
「不当な判決に対するNO!」の意思表示として、ぜひこの裁判の補助参加人に加
わっていただけませんか?

※補助参加(民訴法42条 訴訟の結果について利害関係を有する第三者は
当事者の一方を補助するため、その訴訟に参加することができる。)
手続き費用として500円(下記の口座に振り込みをお願いします)。

受付期間 8月20日
申し込み先  下記まで。メール・郵送・FAXいずれも可。

えひめ教科書裁判を支える会

〒799-1507  今治市東村1-3-8
Fax 0898-76-5040
Eメール zxvt29@dokidoki.ne.jp
郵便振込口座  教科書裁判を支える会 01610-4-31943

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2007年7月20日 (金)

残留孤児 Mさんその2

それから新京へ避難移動で、平安駅から貨物列車に乗って新京の軍隊が住んでいた兵舎に1ヶ月ぐらい滞在しました。一部の人はそこに残り、私たち一部の人は新京から列車に乗って、元、奉天、現在の瀋陽に移動しました。瀋陽市加茂国民学校避難収容所に着き、その学校には避難者が何百人も居ました。毎日の食糧は、皮そのままの高粱が少し配給され、それをお粥にして食べましたが、お腹半分にもならないくらいで、皆、疲れと栄養失調で病気になり、父は避難所についた3日後に死亡。弟は11歳で妹は9歳で次から次へと死亡しました。残った私と姉と兄3人になりました。私も重病の体で意識不明で記憶を失い、一緒に居た弟や妹が何時死んだか全然知りませんでした。

その後、避難所には中国人が毎日来ていました。ある日、収容所に来た中国人の男性に私たち姉妹は貰われることになり、収容所の皆様と兄と涙と共に手を振りながら別れて連れられていきました。その日は男性の親戚で一晩泊まり、翌朝早く来て私と姉を馬車に乗せ、瀋陽市から離れた田舎へ連れて行かれました。この一家は親子6人で、私の姉を嫁にするために連れてきたのです。4、5日病気の体を休ませ、食べ物を食べさせてくれましたので、少し元気がつき、やっぱり兄がいる避難所へ帰りたくて、朝暗い内に抜け出しました。時は10月末頃