2013年1月28日 (月)

上海  No.4 虹口区

上海  No.4 虹口区

私が滞在していたホテルは、上海市虹口区にあり、市の少し北に位置する市街地だ。ここは、かつての日本の租界地であり、10万人の日本人が居たそうだ。多くは軍隊であったか。

小奇麗な古い住宅が並ぶ通りを歩く。洋館風の建物の内には庭木もたくさんあり、日本人の中でも、お金のあるいい生活をしていた人たちが住んでいたのだろうと思った。歩道の上に、等間隔で1メートルぐらいの高さのコンクリートの棒が打ち込まれている。中国の友人が、「これ何だか分かりますか?」とたずねるが、ハテ?「後ろを見てごらんなさい。」見ると、上の方に、半円形の金具がくっついている。分からない。「ここに、馬を繋いだのです。」そうか、ここは軍馬がズラリと繋がれていたのだと理解する。

通りの端までくると、「ここには、日本の神社が建っていました。」どのようなものであったかは知る由もないが。靖国神社に準じたもの?中には昭和天皇の写真も飾られていたのだろうか、などと想像する。崇拝の対象や神仏への祈願は、異国の地にあってもなお、目に見える形あるものを求めるのだろうと思った。もちろん、それらを通じて、日本人としての意識、優越感、集団としてのまとまりなどを高めることに役立ったであろうことは想像に難くない。

私の父は、兵隊として長く中国へ行っていた。中支と言っていたので、揚子江沿いであろかと思うのだが、すでに亡くなり生前は何も語ることなく、ただ、弟つまり私の叔父は終戦前の5月、上海で病死しているとだけしか言わなかった。子ども心にも、戦争のことは口にはできないのだろうと思っていた。母に、なぜ大人は戦争に反対しなかったの?とたずねたことがあるが、母は沈黙したまま一言の言葉もなかった。その時私は、密かに、いやなことは嫌と言える大人になろうと強く思ったことを覚えている。

いまは、情勢の急激な変化を見ながら、あの時の母の沈黙を思いやることができる。虹口区の街を歩きながら、確かにこのどこかに叔父が居たのだと思うのだが、手がかりなどあろうはずもなく、人々のざわめきと雑踏のなかで、やがて私もその中のひとりとなり、現代の立ち位置のままでしかいられないのだった。

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2013年1月21日 (月)

上海  No3   水

上海  No3   水

自宅に戻り、まずは手を洗おうと水道の栓を開けて流れ落ちる水に手を差し出した時、私はアッと驚いてしまった。その流れる水のあまりのやわらかさとなめらかさに私は、しばし戸惑ったのだった。上海の水道水と違うのだ。一口飲んでみる。舌の上にも柔らかい。
はて、もしかして気のせいかもと思ったのだが、シャワーを浴びると、ここでもまた、体に当たるお湯は滑り落ちるように優しいのだ。

このような感覚を体験するのは、初めてのことだ。これまでにも外国へ行ったことはあるのだが、10日余りのことで日本へ戻っても水の違いを感じたことはなかった。今回は2ヶ月の滞在の間に、上海の水の感覚を皮膚が覚え込んでしまっていたのだろうか。日本の水がいかにきれいで、きめ細かく、やわらかいものであるかを、私はこの時、身にしみて実感したのだ。

話は違うが、関東から放射能汚染を避けて高知へ避難してきている母子のこと。しばらく高知に滞在して、一度、自宅に帰った時、子どもさんが「水が痛い」と言っていたと言うのだ。その時は、ふううん、そのようなこともあるのか、それとも水に何か目には見えない物質が混じっているのだろうか、とよく分からないまま聞き流したのだが、今は、なんとなく分かるような気がする。

常に外界と接している皮膚は、脳が認識する以前に、いろいろなものをキャッチしているのだと思う。科学が発達して私たちは、目に見えないたくさんのものを数値化して認識できるようになった。結果、ともすれば、五感の感性よりもコンピュータではじき出された数字で世界を見、それがまるで絶対的に正しいものであるかのように思い込んで生活していることが多々ありはしないだろうか。

上海の水道水は透明だが飲めない。私はペットボトルの水も飲んだが、ホテルでは水道水を沸騰させて白湯にしたりコーヒーを作ったりして飲んでいた。沸騰させることで雑菌は死んだだろうが。下痢は一度もしなかった。
上海の人々は、同じ水道水で食器を洗い、野菜を洗い、歯も磨いているだろう。食堂で口にするコメもその他の料理も、必ずしもペットボトルの水で炊いているとは限らないなどと自分勝手に理屈をつけていたのだが。

私が通っていた語学教室は上海外語大学の中にあった。大学の中に小さな川が流れていたが、毎日ずっとココア色の水で、泥の川かと思うのだが、向かいの店の人が魚を釣り上げた姿もあったというから、生物が生存できないような汚染状態でもないのかもしれない。日本のように急斜面の山からすぐに海へ注ぐ地形ではなく、長い平地を延々と流れてくる水だから、透明度は望めないのだろう。
余談ながら、大学の横にある下水処理場はとても大きくて、もちろんここ一箇所ではないはずだが、高知市の処理場がいくつも入りそうだった。上海料理は他の地域と比べてとてもたくさんの油を使う。家庭から排出される油の処理だけでも大変なものだろうと思いつつみたことだった。

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2013年1月18日 (金)

上海 No.2 大気汚染

上海 No.2

帰国して間もなくのニュースで、北京の大気汚染を報じていた。上海は北京ほどではないが、やはり汚染はひどく毎日のテレビで、その日の汚染指数が発表される。上海に着いてはじめてテレビのスイッチをいれるとまず飛び込んできたのが、この汚染指数だったので驚いてしまった。

上海で青空が見えることは希だ。太陽の姿も、霞んだ大気の向こう、輪郭さえも見えない日が多い。東西南北の感覚が分からなくなる。上海のシンボルマーク、テレビ塔に登って街を見渡しても煙っていて、近くのビル群しか見られず残念だった。高知の澄み切った青空をとても恋しく思いながら過ごした日々だった。

北京を知っている日本人が、上海なんてきれいなものですよ、北京はざらつくような感じで、日本に帰ってから肺の検査に引っかかった人もいますよ、と言うのだ。

話かわって、昨年の5月イランへ行って首都テヘランのこと。テヘランは標高1600メートルぐらいで人口は1000万足らずだが、やはり大気汚染がひどくて、車を制限していた。市街から車で入ろうと思えば朝6時半までに入らねばならず、夜は8時以降でなければダメとのことで、マイカー通勤者は大変だと言っていた。帰国して中東メディアに目を通していると、1月6日付けのニュースに、テヘランの大気汚染最悪、原因はガソリンの低品質とある。テヘランは青空もあり街並みも結構きれいに見えたのだが、汚染状況は深刻らしい。これから国産車の向上と石油精製技術を高めるとある。

上海は改革経済以前、30年ぐらい前に3回ほど訪れたことがあるのだが、当時も大都市とはいえ、空はきれいで、車も少なく、高層ビルもなかった。同じ街とはとても思えない。今はもう幻でしかない。わずかに、外灘に残された西洋建築群に名残をとどめるのみだ。
昨年9月、上海に立ち寄った時にすでにその変貌ぶりは目にしていたのだが、2ヶ月の短期間とはいえ滞在していると、あらためて経済発展のスピードの速さを実感する。

上海に限らず、経済成長期の都市は利益優先で、環境問題の解決は後回しになるのだ。かつての高度経済成長期の日本の公害運動を思い出していた。日本では一見、公害運動には一区切りついたかのように思えるのだが、今や、空も海も大地も地球的規模で目に見えないさまざまな汚染が広がり続けている。その最たるものは放射能汚染だ。子や孫たちの未来を考えるとき暗澹たる思いなのだが、これ以上の汚染を食い止めるために、可能な限り、自分にできることをやっていかなくてはならないと思っている。
 
mm記

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2013年1月17日 (木)

上海  №1

上海  №1

秋から2ヶ月あまり上海に居た。日中政府間は、領土問題をめぐって最悪の状態だが、国民はそれで日本人敵視ということもなく、日本人かと尋ねられて嫌な思いをすることはなかった。どこの国民であろうと、市民は日常の平凡な生活が大事で、人と人との触れ合いはあたたかいのだ。上海へ一人で来たのかと言われ、そうだと答えると、静かにうなづいた老人が印象的だった。

上海の街はとても大きく、巨大なビル群と高層マンションに埋もれている。地下鉄が縦横に走っていてとても便利、30分余り乗れば上海市の郊外にも行くことができる。現在は16号線まで建設中で、隣の蘇州へも繋げるようだ。地上は公共バスも多く、又、地下鉄、バス、タクシー共通に使える交通カードがあり、そのつど現金を出す必要もなく、料金は2,3元で低く抑えられている。言葉が話せなくても、行きたいところへ自由に出ていくことができるのだ。

余談ながら、地下鉄の駅はとても広くて、高知の町の1丁目2丁目ぐらいは有に歩いて、長いエスカレーターをいくつも降り、乗り換えることになる。駅の階段も壁も総大理石で、一瞬、墓の中かと錯覚することもある。日本の庶民としては、大理石といえば身近に感じるのは墓ぐらいのものなのだ。上海人の感覚としては、大理石などコンクリートと同じようなものらしい。豊富な産出地があるのだろう。

人口は2000万を超える上海市、駅の人の波はすごい。男女ともに背が高く、180センチぐらいはざらなので、圧倒される。双方向に行き交う人の行列は先が見えない。ひと駅でこれだ。漢民族の多さを、私は駅の中で実感する。
話は飛ぶが、かつての抗日戦争を描く絵のなかで、日本の兵隊はとても小さく背が低くかかれていることが多いが、これは意図的なものではなく、本当に日本人と中国人の身長差があるのだと思ったことだった。

mm記

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2012年11月23日 (金)

グアテマラの街角から  酔っぱらい

 グアテマラはコツァルという小さな町での昼下がりのことだ。
 町の中心部の公園裏の市場の方から一人の男がよたよたと歩いてくる。そのすぐ後ろには男の妻と思しき女性が、背中に赤ん坊を背負い、両手には生きたままの鶏を抱えておろおろした感じでついてくる。鶏はすぐ近くで開かれている市で買ったのだろう。男はぶつぶつと道行く人に声をかけている様子だが、振り向く者はいない。やがて彼は、道路脇の雑貨屋の前のコンクリートの出っ張りにドタッとすわる。横でおしゃべりをしていた二人の女性が驚いたように去っていく。男は、しばらく座って独り言をつぶやいていたが、そのうち、ふらふらと立ちあがり、そのコンクリートの上に小便をし始めた。そこは、たくさんの人がおしゃべりをしたり、バスを待ったりするために座る場なのにである。
 彼は酔っ払いなのだ。妻と思しき女性はその間一言も発せず、ただ彼の後ろに従っている。今にも倒れそうな男に鶏を抱えたままの手を差し伸べようとしては引っ込め、また手を出そうとしては引っ込めを繰り返している。今日は市の日で、辺りにはたくさんの人がいるのだが、誰も気にかけている気配はない。誰もが無視しているといっていい。
 妻が後ろにいるかどうか、その妻が鶏を抱えているかどうかは別にして、このような光景はグアテマラの地方都市に行けば決して稀ではない。上の例はまだいい方で、泥酔し、死体かと見間違うほどの格好で道路にゴロンと寝ころんだ人を見つけるのは決して難しいことではない。否、土曜日日曜日にはもうゴロゴロいるといった方が正しい。そしてそのような飲み方はアルコール依存症へとつながる。そして多くの場合家庭内暴力がついてくる。
 私の知人にもアルコール依存症の人がいる(勝手にそう思っているだけで、誰かが診断を下したわけではないが)。飲み始めたら毎日ぶっ倒れるまで飲む。約2週間飲み続け、その後ピタッと約2カ月から3カ月断酒する。しかし、何かの拍子でまた飲み始める。これの繰り返しだ。2カ月も3カ月も止められるのだからと家族も周囲もそれ以上を期待するが、いつも裏切られる。飲む酒は、クーシャと呼ばれるアルコール度の高い密造酒がおおい。飲んでいる間は朝の3時、4時に起きて酒屋の戸をたたくらしい。
 そんなことの繰り返しだから、家族の生活は惨めだ。彼が泥酔して、だらしなく路傍に横たわる姿を見る妻とまだ幼い3人の子供の思いはいかばかりであろうか。肩を寄せ合い忍び泣く彼らの声が聞こえる。

 グアテマラのアルコール問題は深刻である。しかし、社会がアルコール問題解決に乗り出そうとする動きは、私の知る限りまだない。ただ酒を断ち切れない個人の問題として考えられているだけで、依存症というとらえ方すらまだないのではないかという気がする。だから、患者同士のつながりは全くなく、社会の無理解無関心の中で、家族の孤立とやりきれなさだけが深まっていく。                        エピゴーネン

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